出会いとしての形 川瀬智之(東京藝術大学准教授:美学)
現代の社会は、声高に話す人々であふれている。主張し、感想を述べ、近況を伝えあう。メディアの発達に伴って、その度合いは増すばかりである。そうした中にあって、任田進一の作品に触れる人は、周囲を取りまく話の氾濫とは全く異質なものを見出す。そこには、音はない。むしろ、音のなさそのものが際立たせられ、一種の音になっている。人はその沈黙の声に耳を澄ます。それは、芸術の一つの達成である。任田はどのようにそれを実現しているのか。
任田は、これまでに様々なシリーズの作品を制作してきた。たとえば、かつて彼は、土を球形に固めて水中に吊るし、それが次第に崩れていく様を観察する作品を発表していた。近年では、草原や水面を撮影した写真や、水槽に沈めた花が朽ちてゆく様を写した写真を発表している。
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現代の社会は、声高に話す人々であふれている。主張し、感想を述べ、近況を伝えあう。メディアの発達に伴って、その度合いは増すばかりである。そうした中にあって、任田進一の作品に触れる人は、周囲を取りまく話の氾濫とは全く異質なものを見出す。そこには、音はない。むしろ、音のなさそのものが際立たせられ、一種の音になっている。人はその沈黙の声に耳を澄ます。それは、芸術の一つの達成である。任田はどのようにそれを実現しているのか。
任田は、これまでに様々なシリーズの作品を制作してきた。たとえば、かつて彼は、土を球形に固めて水中に吊るし、それが次第に崩れていく様を観察する作品を発表していた。近年では、草原や水面を撮影した写真や、水槽に沈めた花が朽ちてゆく様を写した写真を発表している。