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田村勇太 YUTA TAMURA / ワタシハ(on the grass)
アーティスト:田村勇太 YUTA TAMURA
タイトル :ワタシハ(on the grass)I am.(on the grass)
制作年 :2021年
素材 :Mixed media on wood panel
サイズ :53.0 x 53.0 cm
エディション:一点物
額装 :なし
証明書 :なし
サイン :あり(パネル裏面)
作品コンセプトと問題提起
「現代社会における人間という存在とそこに在る身体」を主題に置き、デジタル的概念であるピクセル(ドット)で描かれたキャラクターをモチーフとした作品群を展開する。なぜピクセルのキャラクターをモチーフとするかという問いには主に2つの理由をもって答えようと思う。1つ目の理由は、現代社会に生きる人間はこのキャラクターたちと同じ立ち位置にいるのではないかということを示す意図があるという点。2つ目はデジタル概念をあえてアナログに起こすことによってデジタルというものに肉体を与えたかったという点である。順に説明する。
1つ目の人間の立ち位置云々について。私の描くキャラクターはどれもゲームのエキストラ的な人物をイメージしている。特徴を持って描かれる主人公とか主要な登場人物ではなく、大した特徴もない所謂モブキャラである。彼らはどういった存在なのか考えてみよう。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった、特にロールプレイングゲーム、RPGと呼ばれるジャンルをプレイした経験がある方ならピンとくる話だと思うが、こういったモブキャラは例えばAという街では「エマ」という名前で登場したかと思うと、同時にBという村では「アン」という名前でしれっと生活をしている(実際には名前すらないという場合がほとんどだけれども)。ゲームの世界ではこういうことが当たり前に起こる。要するに、同じ見た目のキャラクターを違う人物として何度も使い回しているというわけだ。彼らはほとんど無限に何者にでもなれるのである。しかしそれは裏を返せば、彼らは誰でもない存在とも言えるだろう。現代に生きる私たちも同じような存在ではないだろうか。SNSでは自分をいくらでも作り替えることができる。性別も年齢も見た目もデジタル情報として簡単に変えられる。では内的なものはどうだろうか。自分のもつ価値観や信念といったものは、果たして本当に自分から生まれたものなのだろうか。そもそも自分が考える「自分」など存在するのだろうか。毎日スマホから与えられる膨大な情報を浴びながら、そんなものにはびくともしない、これが私なんだ!と確信できるものなどあるのだろうか。きっとないだろう。現代にはもはや誰一人として物語の主人公はいないのだ。私の描く彼らは私自身であると同時に、彼らを鑑賞する者自身の姿でもあるのだ。
2つ目の理由。デジタルをアナログに起こすことの意味だが、そもそもデジタルとは数字の羅列であり、数字というのは物質としては存在しない。数字は概念的なものだ。1つ目の理由を説明する中で、人間の存在が情報化しているというような内容を書いたが、一方で人間の身体は今のところアナログとして存在している。このアナログの身体を私は今一度見直してみたいと考えている。ピクセルのキャラクターをあえてアナログで描き起こすことによって、彼らに身体性を持たせることができないだろうか。それは同時に私たちがどこかに置き忘れそうになっていると私には感じられる身体性を取り戻そうとする行為と同次元の話ではないだろうか。
以上が現在私の考え作品コンセプトと問題提起である。
※作品は税込価格です。